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アセルカデ

日諸木について

 「日」とは清々しい気、ご神気のこと(正気、真気、ご神霊と様々な表現があります)。気は物に宿りますので、依代ヨリシロを木とするとき、ご神気を守る宿木ヤドリギを「ひもろぎ」と言います。漢方薬局においては、個々の生薬、それら生薬を組み合わせた漢方薬が「木」です。わたしたちは体に(とりわけ古典には「心」と書かれている)日が宿りますので、日 (ヒ) が留 (ト) まる人 (ヒト) であるといわれたりします。古来伝統医学では日を守ることを主眼としております。だからこそ漢方薬は心に沁みていくのです。

 日本では明治前までは伝統医学が主流でしたが、西洋文明を受け入れないのは未開で野蛮と、植民地化されかねない時代背景もあり全面的に西洋医学にシフトしました。しかし伝統医学は医学ではないという扱いをされながらも、守り抜いてこられた先生方がおられ、お陰様で今日も日本に伝統医学が残っております。それには勿論必要とする方もいたということでもあり、この様に伝統医学が永く続き残っているのは自然の摂理に適っているからなのだと思います。

 現代の西洋医学を主流とする医療の状態を見ますと、西洋薬依存型の医療体制がつくられ大きな市場と化して映ります。この西洋医療産業では、始めには胎児の生命を捨てるか活かすか、終いには医療処置により生命の維持を断つかどうかを人が決めるという、大変不自然な考え方が前提とされ、その非摂理さゆえに人に矛盾を突きつけます。天命や寿命という感覚とは程遠い大変不自然な事態に直面せざる得ないのは、人が自然を支配し克服するという西洋的な考えに基づく当然の結果でもありましょう。この1世紀ほどで主流となったこの医療体制は日本においてもすっかり定着し、西洋薬の消費量が世界一とまでになりました。いつの間にか医療の分野で植民地支配の構図が定着したとも日諸木にはみえるのです。

 西洋薬開発はユダヤ人の錬金術に端を発します。錬金術は金を化学技術で製造することです。呪術とも言われます。これまで合成化学物質が薬として台頭してきました。しかし新薬は開発されども、永くは続かず1世紀程の流行を終えようとしています。これからは新型コロナワクチンで周知されましたように、合成生物薬(バイオ医薬、ゲノム医薬)が最先端の流行となっていきます。合成化学薬は地球を汚染する程度で済んできたかもしれませんが、合成生物薬は地球上の生態系を巻き込みながら不自然な生き方を一層浸透させ、種の絶滅へのトリガーになりうると日諸木は危機感を強く感じます。

 2025年には国の出資でゲノム製薬が法人化されます。これは日本が戦争をしないので、軍備は不要かという問題と同じで、最先端とされる技術は理解保持する能力は必要です。しかしこれを生き物に使うかどうかは別の問題と日諸木は考えます。

 一方で漢方薬が徐々に見直されてきており、その動きが西洋でもあります。漢方医の先生が海外の製薬メーカーに呼ばれアドバイザーをされています。しかし西洋薬のように錬金のツールとして生薬を扱い始めるならば、生薬はゲノム工学で改変、栽培されはじめるのは時間の問題です。そうなれば生薬は神気を宿すものではなく、当然漢方薬の本来の力は失われることになります。

 

 市場に流通する栽培や養殖による農林水産物が、だんだんと気を補う養生の役割が果たせないほどの生命力となってきていることからも、わたしたちは生きものとしての生き方を、食の観点、医の観点からも見直さなければならないギリギリの時点にあるのでは無いでしょうか。節目節目で神社に詣でる日本人ならばきっと感覚としてわかると思うのです。神社で何を拝んでいるのか、食事をするときに何にいただきますと言うのか、薬からも「日」をいただいています。山崎闇斎先生は「目に見えた通りで、土からでなければ金は生ぜぬ」と伝えられました。錬金では「日」は養われません。当然自然のことなのです。其の道理にどこかで立ち帰らなければならないと思います。

 日諸木はわたしたちが自然物として生かされ、自立していることを思い出すための「日」を守る場でありたいと願い努めます。

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